エンジニアという生き物について

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私は主にソフトウェアエンジニアとして仕事をしてきました。

この「エンジ二ア」という職業はさまざまな種類に分類されると思いますが、いわゆる理系の職業とされていますよね。

ソフトウェアの分野に限ってもさらに専門分野は細かく分類されるでしょう。

ですので、私がこれから書く「エンジニア」感には当然偏りや違う側面もあると思います。でも、少なくとも今の日本のエンジニア共通の思いや課題などもあるのではないか、私はそう思います。

では、私がなぜこの道を選んだかと言うと、学生の時にはとても単純で、単なるサラリーマンになりたくなかったからです。

でもその時は単なる「サラリーマンとは何?」と言うこともよく分かってなかったと思います。

「サラリーマン」と言う言葉の響きから、私は漠然と毎日会社に通って、決められた時間椅子に座ってルーチンワークをこなすような仕事だと勝手に思っていた気がします。

実際には「サラリーマン」にもいろんな形態の業務や職種があるのに、当時は理系であったと言うこともあり、また世の中がバブルの残り香で空前の売り手市場だったので全然職業や世の中のサラリーマンについて調べもせず、銀行の窓口のような、サラリーマンは9時5時で働く創造性の低い職業と思っていたのです。(銀行の窓口の方すみません、銀行の窓口の業務も大変な苦労と創意工夫がるということを後から知りました)

大変失礼はことですね。

でもだからといって自分で起業するようなことまでは当然想像もできないし、フリーで食べていくという選択肢など片隅にもありませんでした。

理系と言っても大学に残って研究で生きていけるほど勉強ができたわけでも、続けられるほど好きだったわけでもなかったのです。

要は中途半端で勉強不足な状態でした。

そんな私がなぜ「エンジニア」になれば、単なるサラリーマンではない、「楽しいサラリーマン」になれるのではないかと思ったか、それを書きます。

当時、私は千葉大学の画像工学科というところで大学生をやっていました。

大学の勉強は全くわからない事が多かったです。

でも4年生で三宅先生という教授の研究室に入ってからは「研究の真似事」を始めて、大学で遊び以外で楽しいと思える場所と仲間を得ることができたのです。

当然大したことはできないのですが、それでも先輩や先生方に教えてもらい、指示してもらい、見ようみまねで「研究もどき」をやっていると、子供の頃に草むらで虫を捕まえて回っていた頃に似た楽しさを感じました。

その研究室はその後に情報工学の研究室に発展していくので、写真工学から情報工学への変換期だったのかもしれません。

三宅先生や当時助教授だった谷口先生はこの業界では結構有名な方だったので、企業との付き合いもかなりありました。

私の同期には企業との共同研究をしている奴もいましたし、企業から研究室に勉強に来ている人もいました。

研究室は今までの授業とは全く違い、時間に制約も制限もなく、決まった時間に学校にいる必要もありませんでした。

ただ、成果を求められ、卒論を認めてもらえないと卒業できないという決まりがあっただけです。

勉強する内容も、時間の使い方もほぼ自分で考えてコントロールすることになる、そんな生活がとても自分には合っていると思ったのです。

そして当時企業から来ていた研修生の方などに話を聞くと、どうもメーカーという企業に就職すると、給料をもらいながらこのような仕事ができるらしい、と分かったのでした。

この職業が「エンジニア」なんだ、とその時思ったのです。

これならサラリーマンでいながら、私が勝手に想像していた「普通のサラリーマン」ではなく、「楽しいサラリーマン」になれるのではないか、単純な私はそう思ったのです。

そんなわけでメーカーに就職しました。

今振り返ってみても本当にいい加減に進路を決めてましたが、実はこの時の「楽しさ」を感じていた部分にエンジニアの本質的に重要な要素があるのではないか、と今私は考えています。

結構長くなってしまいましたので、この続きは次の機会に書きますね。

33taka77
  • 33taka77

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